発生日:2026年7月12日。 カタールの前首長で、同国の近代的変革の中心人物だったシェイク・ハマド・ビン・ハリファ・アル・サーニ氏が74歳で死去したと、政府が発表した。

夜に行われた葬儀の礼拝には数千人がドーハのイマーム・ムハンマド・ビン・アブドルワッハーブ・モスクに集まり、その後、首都北方のルサイル墓地に埋葬された。首長府は、正式に「父なる首長」として知られる同氏を悼み、当局は数日間の公的服喪を命じた。政府機関と公共施設は閉鎖され、国旗は半旗とされた。

シェイク・ハマド氏は1995年6月から2013年6月まで統治した。父親が海外に滞在している間、流血を伴わないクーデターで権力を掌握し、その後、自ら退位して、息子で後継者のシェイク・タミーム氏に王位を譲った。この退位は現代のアラブ君主制では異例であり、カタールがその後も発展を続けることになる継承体制を確立した。

1952年にドーハで生まれたハマド氏は、1971年に英国のサンドハースト王立陸軍士官学校を卒業した。カタール軍に入り、1977年に皇太子兼国防相となった。その後の経済政策では、同国の豊富な天然ガス埋蔵量を活用し、インフラ、教育、医療、海外投資の資金を賄った。

カタールは1996年に初めて液化天然ガスを出荷し、2006年までに世界最大のLNG輸出国となった。アシャルク・アルアウサト紙は、ハマド氏の治世中に、GDPで測った経済規模が以前の24倍超に拡大し、1人当たりの生産額は約6倍になったと報じた。カタール投資庁は、主要企業、不動産、スポーツを含む世界の資産に国富を投じるために設立された。

同氏の統治下で、カタールの影響力はエネルギー分野以外にも広がった。アルジャジーラは首長令を受けて1996年に放送を開始し、主要なアラビア語ニュースネットワークへと発展した。ドーハは積極的な仲介政策を採用し、交渉を主催するとともに、対立する地域勢力の双方と意思疎通の経路を維持した。カタールはアルウデイド空軍基地を通じてワシントンとの軍事協力を強化する一方、ガザでの事業にも資金を提供した。

同国は2010年、2022年サッカー・ワールドカップの開催権を獲得し、後にアラブ諸国および中東で初の開催国となった。この決定により、スポーツもカタールの国際的存在感を高める手段となった。

湾岸諸国の政府、エジプト、トルコ、イタリア、英国のチャールズ3世国王のほか、イラン、アフガニスタン、レバノン、パレスチナの政治関係者から弔意が寄せられた。反応の広がりは、ハマド氏の指導下で築かれた多様な関係を反映していた。

同氏の実績は、強く中央集権化された君主制や、地域的な議論を引き起こした政策とも結び付いていた。それでも、カタールの経済・外交面での変化の規模は明白だった。18年間で、湾岸の小国は、領土をはるかに超えて影響力を及ぼす主要なエネルギー供給国、投資国、放送拠点、仲介国となった。この変革は同氏の退位後も続いた。